「富士山」私の行きたかった場所#03

パワースポット富士山

富士山は一つの山で形成されている独立峰で、富士山の剣ヶ峰(3776m)が日本の最高峰といわれています。富士山は美術的・文学的な題材にされることも多く、昔から人々を魅了してきたことが推測(すいそく)できます。

「日本のパワースポット」で検索すると富士山の名前が表示されます。この記事では、なぜ富士山がパワースポットといわれているのか調べてみました。

広大な富士山エリアに点在する様々なパワースポット

富士山の面積は約1,200平方キロメートルで、北海道札幌の面積1,121.3平方キロメートルよりも広い。富士山登山も良いけれど、登山に行けないときや行き先に迷ったときには広大な富士山エリアの中には様々な御利益があるとされている場所が点在しているので、目的によって行き先を決めても良いと思います。それでは富士山エリア内にある有名なスポットを幾つか御紹介します。

金運上昇
  • 新屋山神社(あらややまじんじゃ)
  • 金櫻神社(かなざくらじんじゃ)
縁結びと安産祈願
  • 山中諏訪神社
眼病や皮膚病の祈願
  • 石割神社
神道修行体験
  • 身曾岐神社(みそぎじんじゃ)

霊峰富士山の歴史

富士山エリアには様々なパワースポットと呼ばれる場所があることが分りました。「では富士山自体はパワースポットといえるのか?」という疑問が湧いてきました。そこで宗教的方面で富士山について調べてみました。

富士山の最古の記述「富士山記」に書かれた二人の女性

富士山について書かれた最古の記述は875年に富士山にまつわる話を纏めた「富士山記」といわれています。「富士山記」には「役人と民間の人々が富士山の祭祀(さいし)を行っていたとき、富士山頂よりも少し上の所に浮かんで舞を舞っている女性が二人、人々に目撃された」と記述されています。

富士山記より

この文章は「富士山記」の一部分を理解しやすいよう現代風に編集したものです。

875年(貞觀十七年)11月5日、役人と民間の人々が昔からの習慣(しゅうかん)に従って富士山の祭祀(さいし)をおこなった。昼時になると朝方よりも美しく晴れた。顔を上に向けて富士山の頂上を眺めると、山頂から30センチメートル余り上に離れたところで美しい女性二人が並んで浮いて立っていた。二人の女性が舞(まい)を舞っている様子をその土地の人々は確かに見たと古老が語っている。

「富士山記」に書かれている上記の記述について「富士山火口から立ち上っていた煙を女性に見立てたのではないか」という意見がインターネット記事で書かれていたのを読んだことがあります。

縄文時代~平安初期「噴火を繰り返す富士山を鎮めるため拝み始める」

富士山は5600年前から現在まで約180回以上噴火したといわれています。

富士山の噴火を見ていた当時の人々は、溶岩や火山灰などを噴き出す富士山の様子に「怒る神」を重ね見ていました。

富士山本宮浅間大社の過去の出来事が記載された「富士本宮浅間社記」に富士山信仰に関する情報が残されています。富士山本宮浅間大社の歴史から富士山が神聖化されていく経緯が分かります。

  • 縄文時代
  • 第7代天皇の孝霊天皇(こうれいてんのう)
  • 紀元前290年から紀元前215年
  • 富士山が大噴火し、周辺地域は荒れ果て住民は離散する
  • 縄文時代
  • 第11代天皇の垂仁天皇(すにんてんのう)
  • 紀元前29年以降
  • 富士山の噴火は治まらず続いていた
  • 紀元前27年
  • 垂仁天皇(すにんてんのう)は、富士山噴火による被害状況を悲しく思い、山の神を鎮めるため富士山の麓(ふもと)に浅間大神を祀る
  • 当時は富士山自体が神様とされており富士山に立ち入ることは禁忌とされていたのと、噴火により富士山に近づけなかったため、富士山が見える場所に創建された社殿から富士山を拝む「遙拝(ようはい)」がおこなわれた。(富士山の遥拝の始まり)
  • 以降、噴火が静まる
  • 浅間大神を御祀り始めた当初は決められた場所が無かったため、富士山の麓の適所と思われた場所で御祀りがおこなわれていた
  • 現在、富士山周辺に複数の「縄文時代の祭祀遺跡」が発掘されており、富士信仰に関係するかもといわれている
  • これが富士山の噴火を鎮めるため拝み始めるキッカケになった出来事であり、富士山本宮浅間大社の起源にもなる
  • 浅間大神が特定の場所で御祀りされるようになったのは「日本武尊(やまとたけるのみこと)が現在の山宮浅間神社境内にある『山宮浅間神社遺跡』の『遙拝祭祀場跡(ようはいさいしじょうあと)』で浅間大神を御祀りしたのが初めて」と伝えられている
  • 平安初期
  • 第51代天皇の平城天皇(へいぜいてんのう)
  • 806年
  • 平城天皇(へいぜいてんのう)の言葉を実施するため坂上田村麿(さかのうえ の たむらまろ)が、現在の富士山本宮浅間大社の場所に遷座(せんざ)して現在に至る
  • 第56代天皇の清和天皇(せいわてんのう)
  • 864年
  • 富士山の大規模噴火が起きる「貞観大噴火(じょうがんだいふんか)」
  • この噴火で莫大な被害が出たとの知らせを受けた朝廷は「大神祭祀の怠慢が原因」として現在の河口浅間神社(かわぐちあさまじんじゃ)を創建
  • ※この噴火で吹き出し流れ出た溶岩により樹海や本栖湖などが出来たと考えられている
  • 江戸時代中期
  • 1707年
  • 富士山最後の噴火が起きる「宝永大噴火(ほうえいだいふんか)」

平安末期~「一時的に噴火が収まり登拝が始まる」

平安時代末期に富士山の噴火が収まった頃、修験者が霊力を得るため直接、富士山に足を踏み入れるようになりました。富士山に登りながら富士山の神様を拝むことを登拝(とはい)といいます。

多くの修験者が登拝を行う中で富士山の登山道が開拓され、室町時代中期から安土桃山時代(15世紀から16世紀頃)には普通の人々も登拝するようになり富士登山が大衆化していきます。

江戸時代「富士山の民衆信仰『富士講』が始まる」

江戸時代になると江戸を中心とする関東で富士(浅間)講が民衆の間で流行しました。富士講では拝み(オガミ)という定期的に行われる行事と、富士詣(ふじもうで)と呼ばれる富士登山が行われていました。それに伴い(ともない)富士塚(ふじづか)と呼ばれる富士山に見立てた人工の山や塚が各地に作られました。

明治時代前期から現代「女人禁制の解禁により誰でも入山できるようになる」

富士山は1872年(明治5年)3月に一般女性の富士登山が解禁されるまで、女性が富士山に登ることは禁じられていました。その原因の一つとして当時の富士山麓で生活する人々の中に「穢れ(けがれ)ている女性が富士山に行くと、富士山が荒れて不作になる」という言伝えが影響していたからといわれています。

一般女性の富士登山が解禁された一要因として「富士講に女性信者が多く、御師(おし)と呼ばれる富士講指導者が一般女性の入山禁止緩和を画策した」ことがあるとされています。

まとめ

富士山は縄文時代から神聖な山として扱われてきたことが分りました。女人禁制だった時代に髪を切って男性に変装してまで富士山に入山した女性がいた記事を読んだときには、富士山には人を惹きつける力があるのだと改めて思い知らされました。そのような富士山に対する人々の思いも富士山がパワースポットとして扱われている理由の一つなのかもしれません。現在では男女の区別なく自由に富士登山ができるようになり、コロナ発生以前の登山者は23.6万人もいたそうです。

<参考>